虐待のない社会を!動物愛護を広げよう!
東久留米市のセミナー、配布資料「ノラ猫を巡る地域トラブルを解決するために」を読んで。
この日、配布された資料を読むと、野良猫はあるが動物愛護の言葉がない。これは問題だ。
資料は「A4、裏表」25枚の大作だが読み終わったとき、そこには動物愛護の気持ち、精神が全くなかった。
目を引いたのは、「人と動物の共生する社会の「社会」は「人間社会のこと」、社会=人間社会、とある、
更に、あたりまえだが、法律は「動物の社会」について書いているのではない、とある。
この資料に、不遜な、傲慢な思いがこめられている。この講師は多分、問題だとは思ってないのであろう。
地球上には人間以外数多くの生き物が住んでいる、言葉を換えて言えば人間は生き物の中の一種類、とすれば、他の生物をも一緒に考えなければならないのではないか。人以外の動物にも社会はある。
地球上の生き物として考えるなら人と人以外の動物が、どううまく住んでいくかが問われているはず。
人は、犬や猫を身近に置いて生きてきた。ひとに馴れるように生きてきた歴史がある。それが今、野良猫という侮蔑の言葉で呼んでいる。この資料にも、野良猫としてあげている。数十年前都会の家猫は出入り自由、野良猫はいなかった。
動物愛護とか愛護動物とかの言葉は、人間社会での人間が使う言葉だが、これには人間社会からの不遜な、傲慢な思いがある。昔、仏教伝来の時、仏具を鼠から守るために猫を連れてきたという、以後、鼠の害を防いできて、今もそれは変らない。
地球上での人間を考えたとき、社会=人間社会は強者の論理である。それは、他の生き物は人間の付属物として生きてきたヤツら、となる。
人が、身近にいる動物たちと一緒にいて、子供たちがその中で育っていけば、人と動物は同じ世界の中で生きている、人と人以外の動物の区別はない。そこには強者の論理はない。
新聞記事の中で気が付くと虐待の事件が多発している。どれも強者が弱者に対しての危害だ。2019年2月1日から2月6日までの記事にこう出ていた。
そして、2月7日「児童虐待疑い8万人超」の記事が出た。更に、「国連、虐待で対日勧告」の記事が出た。虐待日本だ、大変なことだ。愛護動物の虐待は強者が弱者に力を加えることなのだ、日本で、人間社会にそれが拡大している。
チラシにある「野良猫対策セミナー」には愛護がない、ダメだ。特に子供に若い人たちに見せられない。
子供のときから生き物たちと一緒の生活をしていれば、動物たちは、みんな仲間だ。豊かな心を育てよう!
東京記事、見出し記事。
東京新聞記事、2019.2.8「国連虐待で対日勧告」
こんなことで、良いはずはない。